心猿句抄やかなぐさ

伊庭心猿



也哉艸叙
猪場毅君、東都日本橋の産。幼にして丹精の技を学び、長じて俳諧の道を究む。伊庭心猿は其号也。茶事に委しく、江戸聲曲を嗜み、近時は榛園と稱し竹の里人の流を汲む。
其家は累世徳川氏の臣、先大人宇田川暘谷は詩文鐵筆を以て聞ゆ。夙く怙恃を失ひ諸州を遍歴、其足跡、北は奧羽の僻村より薩南の邊彊に及ぶ。曾て懾陽に在る時、英人巴氏に其質を愛され学僕となる。次で紀府に遊ぶや自ら南紀藝術社を興し、東西の文人墨客と交を訂す。爾來、赤手以て諸平翁の柿園詠草を覆刻、又、新板樋口一葉全集を主掌、其遺珠を聚めて定本家集を撰し、或は斷翰を摸り女史を繞る交友の祕録を明かにする等、明治文学研究に多大の便益を齎したり。而も隱遁の癖、賣名を好まず、爲に其労を知る者極めて稀也。
若冠、既に化政期の稗史野乘に親しみ、就中、大田南畝、曲亭馬琴の文に私淑す。十數年前、下總葛飾郡眞間なる手兒奈祠畔に寓し、八犬傳地誌を起稿、今尚筆を擱く能はず。叉、頗る翠篁を好み、窓前庭後に諸竹を種ゑ、居を此君亭、別号を竹枝と曰。郷人其風を欣び、雅客恒に庵に充つ。一時、愛玩店を開業し自作の木偶繪馬を鬻ぎしが大戰勃発のため熄む。戰後は專ら騷壇諸家の需に應じ代作の筆を呵し、旁ら册子眞間を梓行す。米鹽のため鉛槧の業に埋れること二十年、現に新村重山博士の庇蔭を得て、辞典校勘の事に從ふ。
今歳晩春の某日、子余を山廬に問ひ、句稿を示して詞書評言を求む。一瞥するに、市井の見聞を基とし、句意平明、趣向古樸、談林の格調掬す可し。然りと雖、余の如き俗人の品隲、千慮ありて一得なきこと論を俟たず。豈、力めて粹士の嗤を蒙らんや。即ち、評語は須く他家に嘱せられん事を請ひ、聊か妄言を贅して子が片鱗を記す。敗殘の一老友が前口上依而如件。
   昭和辛卯二十有六年竹醉月於菅野有流齋
燕石閑人識

心猿不定 意馬四馳(參同契注)
       ○
山椿かげねつとりと大地かな
寺荒れて辛夷の花のさかりなる
堂守のひそと籠るや花の雨
いさゝかのなりはひ見えて雛の宿
つくばひに目高そだちし病後かな
かゝる夜の雨に龜啼くおもひかな
雛の匣しかと抱へて川蒸汽
ひと舟は疎開道具や春の川
春泥やおもはぬ方に大師みち
芦の芽やたそがれさそふ渡し舟
舟がゝり古き廓の遠雲雀
醉足りぬ眼に青柳をよけにけり
   愛犬信乃を哭す
眞間川のぬるむも待たで果てにけり
缺皿にへばりつく飯も余寒かな
凍めしを粥にしてやる夜もありき
あたゝかや犬小屋こわす鉈の音
       ○
ぼうたんや人ゐるさまに煙草盆
としよりの寢酒をねだる※(「虫+厨」、第4水準2-87-81)の月
青すだれせめてかゝげん仮の宿
つくばひに雲かげり來し端居かな
竹落葉空の明るさうつしけり
病む妹の寢顏うつくし走馬灯
たもとなる錢いさゝかや夏の月
いなづまや汐あげてゐる小名木川
都路は雨となりけりどぜう汁
土筆摘む子に教はりし釣場かな
心足る齡となりて鮎の味
香水やすこし醉ひたる京言葉
さりげなく眉描きをり夜の牡丹
林泉にきはまる照りや蝶一つ
哥澤のなにがしとあり竹すだれ
衣更へて昔かくせぬ座りざま
夏痩のわびしさ寄する音〆かな
還俗の尼のうわさや草の餅
軒の風あるかなきかに初袷
かつしかは都の果てやはたゝ神
大き足あからさまなる昼寢びと
二階から聲かけられし夏柳
さめきらぬ醉に葛西の馬鹿囃子
蚊ばしらや吉原ちかき路地住ひ
風鈴に暮れてゐるなり肘まくら
眼帶のをんな会釋す青葉かげ
色町のあまりひそかや金魚賣
出稽古に錠さす木戸や鳳仙花
帶留をすこしゆるめし薄暑かな
起し繪や格子のうちの彈語り
佗びて彈く日癖ともなし五月雨
卯の花や鏡にうつす朝寢髮
       ○
ひなた雨をりをり在のけいこ笛
茶の花にほまち田つゞく札所かな
くせとなる貧乏ゆすり秋高し
米つぶをひらふ夜寒の疊かな
靴のひも結ぶ手もとに匂ふ菊
コスモスに朝餉あかるき二人かな
名月や妹が髮とく竹の縁
あてもなく驛に出にけり天の川
道白く坊につゞくや竹の春
うら枯のゆきゝとなりし空地かな
うき先になほ殘る日や草もみぢ
おしろいの咲くばかりなる垣を結ふ
水見舞むくげに舟をつなぎけり
もらひ風呂つゆけき葉枝くゞりけり
燈籠や小唄のぬしは垣隣
朝顏に病むとしもなき面※[#「宀/婁」、11-8]
きぬ/″\や根岸の里のちゝろ蟲
はぜ舟や夕べさみしき身のまはり
   中山道より伊勢路へ
宿の膳はやすぎて秋の暑さかな
萩桔梗をんなばかりの湯治かな
秋の灯や庭からはこぶ膳のもの
底冷えや伊那のはたごの鹽肴
いなづまに一人めし喰ふ泊りかな
雁啼くや手もと小暗き旅硯
       ○
片日さす筑波は低く寒に入る
遠く來て山落葉踏む一人かな
しぐるゝや十年おなじ鳥羽の宿
新築の遊女屋みゆる冬田かな
いちはやく蠣船の灯のともりけり
冬ざれやどの舟からも夕烟
水鳥も風の中なるけしきかな
爪彈や障子ほそめに根津の森
あんこうや降りこめられし腰障子
とりこわす家のほこりや寒椿
寒木瓜や筆師の店の昼さがり
客ありて灯る座敷や花八つ手
つくばひに糞おとしけり三十三才
※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)凝や侘しきものに燗ざまし
誰彼のいま亡しときく炬燵かな
大霜や川に捨てゆく魚の骨
いくたびか袂にさぐる寒卵
夜を惜しむ閨のあかりや川千鳥
   中洲の昔を偲ぶ
大雪に茶屋のぞめきや女橋
二の替やむかし中洲の雪げしき
伊井河井つれたつ雪のもやひ傘

 あとがき
 私の俳句の師匠は冨田木歩といふ人で、いま五十前後の方ならご存じでせぅ。當時は府下南葛飾郡寺島村玉ノ井といつた、いはゆる※[#「さんずい+墨」、15-3]東の眞ン中で木歩は貸本屋を開いていて、初め私は小さなお客として、その店を知りました。震災の二、三年前、師匠が二十五、私が十四。父の別宅が曳舟の近くにあつたので、私は時々そこへ泊りがけで遊びに行つたのです。
 お定まりの講談本から涙香物を卒業し、さて次はといふ頃になつて、俳句をやつてみませんかと誘はれ、つひ面白半分にノートに書いて見せたのが、いつか「少年」といふルビ附で句や文が俳誌に拾はれるやぅになりました。新井聲風さんに連れられ「曲水」や「初蝉」の句會へも、よく行きました。
 震災で木歩が慘死する少し前に、私はすでに破門の身でしたが、今でも木歩の弟子たることに少しの疑ひを持つてはをりません。しかし、たつた一人の同門の友、和田不一君は昭和の初めに野方の療養所で亡くなり、昔を語る俳友のゐないことを淋しく思ひます。
 以來、結社にもつかず、ひとりよがりの駄句をこね廻していたのですから、一向に進歩しないのは當り前のことで、人に見ていたゞくのものも面はゆい次第ですが、久しく會はない友がりへのよすがにもと、こんなものを編んでみました。
 題名は、どうも私には「や」「かな」の切字を入れぬと句ができないので、その固陋を哀れんで名づけました。また、私の最初の雅号は木歩の撰で宇田川芥子、次に本名と同訓の竹枝、今は申歳生れであるところから心猿と改めました。




底本:「心猿句抄やかなぐさ」(奥付は「句集也哉艸」)福田印刷工業
1951(昭和26)年6月20日発行

入力:H.YAM
校正:
2008年2月17日公開




●表記について

「宀/婁」    11-8
「さんずい+墨」    15-3